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第16回損保ジャパン記念財団賞 受賞文献要旨

『スウェーデンにみる高齢者介護の供給と編成』

大阪大学大学院 人間科学研究科 教授  斉藤 弥生

 筆者が高齢者介護に関心を持ち、研究を始めたのは1980年代の終わりで、日本では高齢者の寝たきり問題が議論され始めた頃だった。政府は1989年に「高齢者保健福祉推進10カ年戦略」(通称ゴールドプラン)を発表し、2000年までにホームヘルパー1万人、デイサービスセンター1万カ所の整備を目指すことになった。また全国の市町村には高齢者の介護実態調査とそれに基づく老人保健福祉計画の策定が義務付けられた。スウェーデンやデンマークの24時間対応の在宅介護が頻繁に紹介されるようになったのもこの頃である。「高齢者が寝たきりにならない国が本当にあるのか」という問題意識に駆られ、スウェーデンに留学し、それから約25年、高齢者介護の変容を見続けてきた。

 2011年のストックホルムでの在外研究で、筆者が目にしたものは、グローバル資本主義に翻弄される高齢者介護の姿だった。「住民が払う税金で住民の老後を支える」と説明できたスウェーデンの高齢者介護であったが、住民が払った税金が企業の収益として海外に流れ、介護の質が低下する要因となっている。「ベンチャー投資系介護企業」、「租税回避地」などという福祉分野では耳慣れない言葉が飛び交う。それまでの筆者の介護研究にはこのような単語は存在せず、「この現状をどう捉え、どう分析し、どう伝えるか」を考えると思考が一時停止した。「なぜこうなったのか」今の介護を説明するために、昔の介護に戻ってみることにした。90年代初頭の留学生時代に読んだP.G.エデバルク教授の“老人ホーム必要論”が新鮮であった。在宅主義を柱とするスウェーデンの高齢者介護であるが、実は在宅主義の功罪については科学的に検証されたこともなく、高齢化が進み認知症高齢者や要介護者が増えた状況では、在宅介護よりグループホームのような共同居住の方が効果的で費用面でも効率的、とエデバルク教授は当時から語っていた。

 社会保障は今も昔も国際情勢や政治状況、国の財政事情や社会構造などの要因に大きく左右され、理想や理念に基づく政策が必ずしも実施されるわけでない。まして介護は人の生活を支えるものであり、人の生活や価値観とともにそのあり方が変わって当然である。そう考えると、長い歴史の中で、今の状況もスウェーデンの高齢者介護の一場面である。

 本書はスウェーデンの高齢者介護を論じるというより、スウェーデンの経験から介護の本質を考えたい、という思いで書いてきた。「誰が介護をするのか、誰がその費用を払うのか」を100年以上にもわたって議論してきた国は世界をみても珍しく、その議論を整理し分析することで、これからの介護のあり様を考える手掛かりがつかめるのではないかと考えた(しかし筆者の力不足でそこまで到達できていない)。

 【理論的枠組み】1章では、高齢者介護において、なぜ公的なシステムが必要かを論じている。G.エスピン−アンデルセンの議論から、戦後福祉国家は介護や育児等の家族内のサービス活動の負担軽減への貢献は少なかった点、介護サービスが抱える「コスト病」の問題点を指摘した。またA.O.ハーシュマンによる「発言」「退出」「ロイヤルティ」の概念を用いて、スウェーデンにおける介護サービス供給と編成のメカニズムを説明している。

 【戦前の議論】スウェーデンでは貧困を理由に人口の4分の1がアメリカに移民した影響で、20世紀初頭には高齢化率が8.5%となり、老人扶養はすでに社会問題として議論されていた。ヨーロッパの各地で労働運動が活発化する中、スウェーデン社会民主党は農民層をも巻き込んだ普遍的な福祉供給を目指すが、福祉エリートによる更生主義との衝突等、高齢者の生活のあり方を巡る象徴的な論争がみられた(2章)。1950年代初頭に登場した収容施設批判は世論の絶大な支持を集め、高齢者介護の在宅主義を形成した。またその流れは戦後福祉国家の建設と連動し、1960年代以降の在宅介護の普及と拡大へ向かう。結果として質の高い施設の建設を目指した福祉エリートは敗北する(3章)。救貧事業をいくら改善しても、人間的な介護は実現できない、という一つの結論だった。また主婦の労働力を当てにしたホームヘルプは費用がかからず、政権にとっても魅力的な選択肢であった。

 【福祉国家最盛期の議論】1970年代半ばには、65歳以上高齢者の3割強がホームヘルプを利用するという、他国には想像できない状況が生まれた。介護給付が最も豊かだった時代に生まれた「オムソーリ」(「介護」と邦訳)の考え方をその語源と社会背景から解釈した。ホームヘルプの供給は、「伝統的モデル」による供給の増えすぎに対する反省から再編が始まり、合理化と専門職化を目指す「ベルトコンベア風モデル」、「小グループ方式」と変容する。日本のホームヘルプの変遷と比較し、両国の違いを明らかにしている(4章)。

 【グローバル化、市場化の時代の議論】1990年代以降のグローバル化や市場化の影響を受け、介護サービス供給の多元化が進む。この時代のスウェーデンにおける供給多元化の解釈を検討し、格差是正のために2002年に導入した「介護マックスタクサ」(利用者負担上限設定)、また市場化を指向する政策として「サービス選択自由化法」(2009)と「家事労賃控除」(2007)を示し、政権政党と介護政策の動向を検証した(5章)。また現地調査(統計データ分析とヒアリング調査)により、分権的システムのもとでコミューン議会の与党の政策理念が制度設計に大きく影響していること、「サービス選択自由化法」が施行されてもコミューンにより異なる制度運用が行われていることを示した(6章)。社会的状況が大きく変わっても、地方税財源で運営される分権化された介護システムが機能しており、その多様化がむしろ進んでいる。

 また2011年秋に介護付き住宅で起きた入居者の死亡事故から始まった一連の介護関連事件(カレマケア報道)をめぐり、ベンチャー投資系介護企業が高齢者介護に与える影響とそれに対処するコミューン自治の構図についてローカル新聞を用いた内容分析で明らかにし、介護報道の特徴にも言及した(7章)。さらに伝統的に協同組合活動が活発な北部の過疎地域、ストックホルムおよびその近郊の介護ソーシャルエンタープライズへのヒアリング調査から、介護サービスの新たな供給体としての可能性とその社会的貢献を示した(8章)。

 【総括】では、C.フッドの公共サービスの編成についての分類を用いて、スウェーデンの高齢者介護の供給と編成を整理し、サービス主体、法形式、財源の視点から、日本とスウェーデンの介護システムを比較検討した。本書のタイトルは「供給(provision)と編成(organization)」であるが、地方税を財源とするスウェーデンの介護システムはサービスの安定「供給」に弱い面を持つが、住民の声に対応するサービスの「編成」の可能性は高い。一方、日本の介護保険制度は安定したサービス「供給」を可能とするが、効果的なサービスの「編成」がしにくい。たとえば介護保険制度はサービス供給量を短期間に増やしたが、24時間対応型ホームヘルプや小規模多機能型介護の整備が困難となっている。

 本書は高齢者介護における家族の役割についてほとんど触れておらず、この点は今後の最重要課題と認識している。その一方で、本書は留学時代の恩師に何年にもわたる指導を受けながら、また北欧諸国の高齢者介護研究者との数多くの議論を重ねて書きあげたものである。不十分ながら日本の高齢者介護政策に少しでも貢献できればと思う。